記事タイトル:「メイズプリズンの迷宮回帰 ソウルドロップ虜囚録」を読了する。


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お名前: ななかん   
「メイズプリズンの迷宮回帰 ソウルドロップ虜囚録」
「メイズプリズンの迷宮回帰 ソウルドロップ虜囚録」

ソウルドロップシリーズの続編三作目である。
そこそこ面白かった。
上遠野さんの正直なのも考えものだ。
信じてはいない、でも存在を疑わない、などと本人が作外で語るべきではない。

今回は前回のように統和機構の存在をうかがわせるようなくすぐりはなく、
変わりにロボット探偵の二重性が読者以外に知られる展開に。
正体を知られたと理解しつつ口封じしなかったというのは、いずれ知れたところで
問題ないということか。

「家」が価値観の基準になる、というのは前近代的な考え方だけれども、民主憲法を
当たり前のように享受する若い人には物珍しいのかもな。
今でも家名が重要な要素になっている体制はあちこちに残っている。
三井や徳川などという名字を持つ人は、本人の如何にかかわらず色眼鏡で見られるだろう。
また実際に重要な人物であることも少なくはない。

だからといって、それが社会の真理とか云う訳でもなく、歴史的な流れの一部にすぎないのだが、
今までそういうことを知らずにいた人が、ある日そういうことに気付くとスゲー真実に
「自分だけ」が気付いた!と勘違いしてしまうのもむべなるかなで、本当は逆なのだが
それこそが日本の真の姿、と固定してしまうとそれはそれで今まで見えなかった裏事情が結構
説明されてしまうから、もう解ったような気になって。

でも財閥は解体されて、影響力を大幅に失ったし、古い家名でも往年の輝きはすっかりなくなっている
わけだから、現代は近代の上に成り立っているという当たり前の現実にもさっさと気付いてもらいたい。

しかしファミリーが社会構造に影響を与えないような世界の親子関係というのも、想像着かないが
あまり気持ちのいいものではなさそうだ。

モンゴル人の習慣では男親の名前をファミリーネームとして引き継ぐと聞いた。

例;オルナ・ヲンドルウェンナ→ヲンドルウェンナ・ハヌカイノ→ハヌカイノ・オルバトウ

このような社会では影響力のある一族は存在しても、それが家名にしばられることはない。
が、ひょっとすると個人が固有名詞で呼ばれた古い時代の名残なのかもしれない。

例;風の後ろを歩く男→拳を握って立つ女→砂漠に花を咲かせる女

その伝でいくと最終的には地球出身であることが解るような識別子が、未来の姓なのかもな。
地球太郎、地球花子、である。

[2006年11月6日 10時36分34秒]

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