記事表題:ひとりごとくらぶ 


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お名前:ななかん   
例えば、自分は相手がよしんばふた廻り下でも、エレクトに躊躇はないのであるが、
(そこまで下げても二十歳であるし)人の親たる諸兄におかれては倫理観に觝触する
ものであろうか。

己の娘ほどの年令の女性では相手として抵抗あるそうな。
それももっともな事かと思う。
そういう浅ましさは若気の到りであると。そのことから自分は停滞しておる
といわっしゃるのだが、確かにそういう観点からするとそのとおりだろう。
だが、止まっているとか成長がないなどと評価されるのは気持ちの良いことではない。

そこで、ささやかな反論として自分はこの問題を「遺伝子」の欲求であると
解釈したい。
利己的な遺伝子のふるまいでは、己のコピーを残す事を至上命題としている。
完全なコピーには「ゆらぎ」が得られないので、次善の策として交配を行う
ようになった。こういった状況では自らの一親等の保全が己の保全についで
重要なことがらとなる。親子間の密接な信頼関係はこれによって喚起される。
親にとって自分の分身たる子供の健やかな育成は、自分の健康と同等か以上の
主たる目的である。そこで抑制が働く。健康たれ、健やかたれ、生活を律する
事は遺伝子の戦略なのである。
子のない個体(わたしのことだな)では自分の保全についで大事なのは親の保全
であるが、親は自分より生存可能性が低くなるので、次善の手として兄弟の保全を
考えるが、兄弟の遺伝子は自分のそれとは関連性が格段に低い。
やはり手っ取り早いのは、そこらじゅうに種をつけてまわることなのだ。
その手段として倫理的な抑制をはずしているのである。停滞しているわけではない。

うむ、理路整然としているではないか。

…なにをかいても負け犬の遠ぼえか。納得いか〜ん。

[2002年12月14日 9時37分0秒]

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