記事タイトル:不惑を越えて+プラス 


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お名前: ななかん   
まだまだですな。

バカにつける薬も無いとわかった以上、この上何を頼りに生きていけば…。
40年たっても何一つ学べず学ばず、悟るところも得るところもなかった
としたら、そんな人生にどんな意味があると云うのだらう。

いや、そもそも人生に意味など求めるのが間違っているのか。
愛する人が傍らに居て、大切な家族を守りたいと思ったら、人生に意味など
求めている暇はない。

60年もして、こども達が独立し、家の中がふたりきりになったら、何かまた
思うところがあるのだらうか。

子供をこさえる事自体に意味があるのや、などと云われたらもはや何をか
いわんやである。つまり、お前には生きている価値など無いというに等しい。

意味などあったのかなかったのか、近所でまた孤独な老人がひっそりと
亡くなった。ねじくれてひがみっぽく、毒ばかりを垂れ流す、ありがちな
独居老人だったが、死んでまで文句を云われる人生など、西宮の伯父のそれ
とは雲泥の差だ。

そうであってはならないと思うべきなのか。
死者にむち打つ人々が情けないのか。

私が死んだら誰か涙を手向けてくれるだろうか。
周りに幸福と微笑みを与えてくれる人が、実は人生にそんな絶望を抱えて
苦しみと共に歩んでいるとしたら、いったい誰がこのひとを救えるのか。

フェリーニの「道」がそうだったのか。
ジェルソミーナとザンパノの道行きは暗示的だ。
黙示録のようだ。

『不幸とは愛されない事でなく、愛されているのに気付かない事。』
一生涯、気付かなければ良かった。知らなければこの胸を引き裂かれる こともなかったのに。

失ってからそうだと気付いたところで、それになんの甲斐があると云うのか。

[2004年11月18日 16時19分7秒]

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