記事タイトル:自戒、自壊。 


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お名前: ななかん   
池田の事件にせよ、神戸にせよ奈良にせよ、なるほど犯人、捕まってみれば
身勝手な変態野郎で大向こうも納得の前歴かもしれないが、なんかね、もう
ひとごとと思えなくて。
ものごとのなりゆきは、そのように望めばそのようにしか見えなくなるもので、
なんかの拍子にわたしが陵辱犯として検挙でもされたら、やっぱり特殊な趣味の
気違いが一人でマスかきやがって、コノヤローと決めつけられるのは必至な訳で。

なんか、そう思うと上記の変態さんたちにもなにか立つ瀬を与えてあげたい訳ですよ。

こんなこと云うと「殺されたモンの無念や家族のやるせなさがわからん愚か者め!」
って、親の仇のように糾弾する正義漢がいてくれるのは結構なのですけれど、実際の
ところ、殺す側にしてみれば誰でもよかった訳だから、殺された人はたまたまそこで
死んでしまっただけで、そうでなければ殺す側にまわる可能性がないとも云えない人
な訳ですよ。解りにくいですね。

つまり生まれながらの聖人と同じくらいに、生まれながらの殺人者は数が少ないのでは
ないか、という推測の表明なんです。

じゃあ、上記の変態さんが転落して冥府魔道を歩いてんのは何かと。もともと素質と
して、社会生活に馴染めない性癖をしているのは仕様がないことなんで、そのへんは
ナチュラルボーンなんでしょうけれど、その程度のことはすべからく皆そうなんです。
それでもなんとか折り合いを着けていられる内は。

わたしにとって、この折り合いの部分は他人と挨拶をかわせるかどうかなんです。
そうでなくなった時、こちらから挨拶を投げても無視され、ゆずった場所にも
近寄らない。
身に憶えが在りませんか?そのような扱いを身近に見たことはありませんか?
人はいうでしょう。そのような目にあうのはそれなりの態度の結果だろうと。

つまり社会に馴染めないものは人間扱いしなくてもよい、と。
社会が人間扱いしないモノが、人間でなくなったからといって、どうして当の
社会人がそのことを非難できますか。なによりその人たちを白痴だの妖怪だの
といって蔑んでいるのは、「罪もない一般市民」な訳ですよ。
妖怪や鬼が人を食らうのは平安の昔から伝わる伝承らしいですけれど、構造は
今日でも変わってなどいないのではないか、と。

云うなればそれはまつろわぬモノの恨み、祟りなのだと。

そう考えたところで、被害者の家族の怒りが解ける訳ではないので、国家は
法律によってその復讐を代行する、つまり退治するのだろうけれど。
社会集団が存在を止めない限り、鬼、居なくなりませんよ。祓っても、退治しても。

祇園祭を別名、御霊会と称する由来を聞きかじったもので、思いつくまま。

[2005年1月16日 18時58分20秒]

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