記事タイトル:陽射し 


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お名前: ななかん   
と云えば、あづまひでおさんの「陽射し」が復刻されている。
「失踪日記」の高評をあてこんでの再販売であろうか、いずれにしても
出しているのが太田出版なのでそう利益になるとも思えず。

全盛期のあづまさんを知らない若いファンには、ありがたい復刻ではある。 版型も装丁も違うのを復刻とは云わないか。

今日はひさびさに傘をささずとも歩ける。
手が空くというのはなんとすがすがしいことか。

東北や北海道方面はまだざんざん降りに悩まされているそうですが、人間
目の前の事象がその人の想念を支配しますから、見もしない天災に気を使うには
感情移入という、おそらく人間のみが使う離れ業を用いなくてはなりません。

ああ、それにしても人の自分にだけ都合のいい環境を思い込む見事さときたら、
論理や法則までもねじまげて、顧みる事のないふてぶてしさは、おそらく先の
感情移入能力の裏返し。

自分はこれが気持ちいいのだから、周囲はそれを支えなくてはならないはず。
いや、支えるべきだ、支えなくてはならない。だって俺様は気分がいいんだから。
この人に取ってはそれこそが社会性なのである。水道も電気も自分に提供されるべくして
用意されている。自分の生活を豊かにするためにだ。

間違っても、ひ弱な人間が過酷な生活環境を生き残るために、獲得した能力こそが
社会生活なのだ、などとは考えつかない。そもそも自分がそういったインフラなしでは
極めて無力なのだという事実を知らない。

無法者とはそれら社会生活の利益は甘受するのに、そのための義務を果たさない者。
無頼者とは全く別の社会の構成員か、ライフラインを社会に頼らなくとも生きて行ける、
真の意味で独立してしまった人間のことだ。

大概の浮浪者やヤクザ、ギャング、ヒルズ族、ニート、ひきこもりはそう云う意味で無法者である。
法の束縛は受けない、ぼくは自由人だ、などという手合いだ。
法も合間をすりぬければギリ合法などとのたまう輩だ。

無法者であるくらいなら無頼者でありたい。
その無頼でさえより広い視野に立てば、独立などちゃんちゃらおかしいのではあるが。

[2006年10月7日 9時53分15秒]

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