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お名前: ななかん   
<訃報>作詞家で作家の阿久悠さん死去 70歳
8月1日19時37分配信 毎日新聞

 「また逢う日まで」「北の宿から」「UFO」など、
日本人の心に残る大衆音楽の詞を書き続けた作詞家で
作家の阿久悠(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)さんが、
1日午前5時29分、尿管がんのため東京都内の病院で死去した。
70歳。葬儀は近親者で行い、後日、送る会を開く予定。
喪主は妻雄子(ゆうこ)さん。
 明治大文学部卒業後、広告代理店に勤務。64年からフリーとなり、
放送作家や作詞の仕事を始めた。作詞は65年のスパイダースのB面が
最初のレコードで、67年モップスの「朝まで待てない」が本格デビューとなる。
日本レコード大賞に「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」
「UFO」「雨の慕情」の5作、ほかにも「ピンポンパン体操」「熱き心に」など、
多くの受賞を数えた。オリコンによると、レコード類の総売上枚数は6818万枚で
歴代1位、22曲がシングル1位を獲得した。
 また、高校野球センバツ大会歌「今ありて」を作詞し、93年からは
毎日スポーツ人賞選考委員を務めていた。
 ジャンルや年齢を超えたリスナーの幅広さと時代を見抜く感覚の鋭さから、
日本大衆歌謡史を代表する作詞家となった。
 著作活動も活発で、自身の体験を基にした敗戦直後の故郷・淡路島で
野球に打ち込む少年たちを描いた「瀬戸内少年野球団」(79年)は直木賞候補となり、
映画化された。82年には「殺人狂時代 ユリエ」で横溝正史賞を受賞した。
 近年は、成熟した視野の広い大人の文化に価値を置き、「昭和」という言葉に
その文化を象徴させた作品を、現代への警鐘を込めて書き続けた。
最近作は先月25日発売のペギー葉山の「神様がくれた愛のみち」。
 97年、30年にわたる作詞活動で菊池寛賞を受賞した。99年紫綬褒章。

 ◆阿久悠さんの代表曲◆
69年 白いサンゴ礁
70年 白い蝶のサンバ、笑って許して、ざんげの値打ちもない
71年 また逢う日まで
72年 京都から博多まで、あの鐘を鳴らすのはあなた、どうにもとまらない、せんせい、恋唄
73年 ジョニーへの伝言、絹の靴下、街の灯り、個人授業
74年 宇宙戦艦ヤマト
75年 ロマンス、時の過ぎゆくままに、北の宿から
76年 青春時代、ペッパー警部、津軽海峡・冬景色
77年 勝手にしやがれ、UFO
78年 林檎殺人事件、たそがれマイラブ
79年 舟唄
80年 雨の慕情
81年 もしもピアノが弾けたなら
82年 居酒屋
84年 北の蛍
85年 熱き心に
86年 時代おくれ
87年 追憶
92年 三都物語
95年 美し都(うましみやこ)〜がんばろやWe Love KOBE〜
06年 バラ色の未来

 ◇球児への思い、歴史に残る歌詞に刻み
 高校野球を愛した作詞家、阿久悠さんが1日、亡くなった。
選抜大会の大会歌「今ありて」を作詞したのは93年の第65回大会。
高校野球の試合をすべてテレビ観戦すると言っていた阿久さんは、球児への思いを
歴史に残る歌詞に刻んだ。
 「今ありて」のタイトルは阿久さんが考えた。当時のインタビューに
こう答えている。「僕らは『明日のために』とか『明日を生きる』という言葉に、
ずいぶん自分をだましてきた。本当は、すべて『今日』なり、『今』なりの永久的な
積み重ねなんで、甲子園で試合をする子たちにとっては、1時間50分の『今』でしかあり得ない」
 作曲を担当した谷村新司さんは、歌詞の中に「ああ甲子園」、特に「ああ」というフレーズを
ぜひ入れてほしいと望んでいたという。思いが一致したのか、出来上がった歌詞には見事に
「ああ甲子園」があった。驚き、感動、落胆。阿久さんは高校野球の感情を「ああ」の2文字に込めた。
 「(野球は)僕のころは、どこか宗教的だった。ボール1個あれば成立するんです」。
2人だけのキャッチボール。3人ならだれかが打つ。4人になれば三角ベース。
1つの白球が「宗教」だった。その言葉は、恵まれた環境がなければ子どもが
野球をしなくなった今、重く響く。
 8日からは夏の甲子園。歌詞にある「緑の山脈(やまなみ)」を背に、球児たちが
大舞台の土を踏む。阿久さんは、未来の扉を開く彼らの純真なプレーを望んでいるはずだ。【滝口隆司】


時代を象徴する人士がまた…。
死はクズにも聖人にも等しく訪れるとはいえ、
毒を垂れ流すしか能のない、身勝手で利己的な人間の屑がのうのうと
論評などかましてるかと思うと、あまりの理不尽に怒りで手が震えてくる。

[2007年8月1日 23時20分48秒]

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