記事タイトル:黄昏の帝国 


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お名前: ななかん   
外国人参政権について強烈な危機感を抱いてる方々が居られます。
わたしも気分的にはいやなんですけど、つらつら考えてるうちに
日本が中国の存在を知ったのはいつ頃なのかと疑問がわきました。

日本最古の国史書として我々が習ったのは八世紀の古事記ですが、
原本は漢文で書かれ、その当時の律令制度などからしてすでに猛烈に
意識してる事が伺えます。 
史料によると中国から漢字文化を輸入するまで、日本語をあらわす
文字は存在しなかったとされており、これ以前の正式な文献は
実際のところ確認されておりません。
日本語そのものがなかった訳でなく、話し言葉としては確立していた
らしく、古い漢文に現れる意味を持たない漢字による当て字が、
日本語の存在を予測させます。

一方中国の国史に日本らしき国があらわれるのは、三世紀の三国志。
演義の方じゃありません。 
東夷伝に「東の海中に倭人あり。分かれて百余国をなす。」とか
書かれているのが最初と目されております。すでに漢の時代には
皇帝に献上物があったとかで、三国志より時代の下がった後漢書には
一世紀に後漢の皇帝からナの国の王に金の印璽が送られたとあり、
これは実物が見つかったため、史実と考えられている。
東夷伝によると、当時の日本は群雄が割拠し、長く騒乱が続いていた
とあり、戦争をせんで済む政治的な解決の為に中国皇帝のお墨付きを
当時の大君たちが欲していたのでは、と伺えます。

中国皇帝の印が文字通り天下御免の印籠になる。
ではその後光はいつから差していたのか。

答えのひとつは最初から知っていたという事。

原初日本人と目される縄文人のほか渡来系と思われる
弥生人、さらに南方の海洋民族の混血が現行日本人の
祖系らしいというのは遺伝的調査の結論。
更に云えばこの広い地球において、人類発祥の地は
ひとつしか確認されておらず、ほぼ全ての民族はその
部族の末裔と考えられている。この考えによれば
縄文人と弥生人の差は時間だけである。
とは言えことによると何万年も離ればなれになってた
親戚に会ったからと云って「よう兄弟!」と云えるかどうか。
なにしろ相手はドレッドヘアーの腰パン野郎である。
親愛や友愛よりは警戒が先だろう。

そんな万年単位を持ち出すまでもなく、秦の時代に徐福という
山師が始皇帝をだまくらかして蓬莱山に出航したという伝説が
あり、それを受けてか、日本国内にも徐福が立ち寄ったとか
ここに住んでたとか云われる説話が数多く残っている。

これがおよそ前三世紀のこと。

それらの説話がその頃から残っていたのかどうかは極めて疑わしい、
けれど中国と日本の交易の古さを示しているとは云えるのではなかろうか。
ヤマトの王権を支えた有力渡来人に秦氏と云うのが居りましたが、
その姓からこれが徐福の末裔ではないかとも。
日本書紀には三世紀の末に百済から渡来したと記録されております。

脱線が過ぎましたが、日本人は「西の海中」に大国があることは
常々意識していたのではないかと考えます。
実際見に行った人も居たかも知れない。
その国力があまりに大きいので、途中にある新羅や百済を先進国と
認めつつも軽んずるきらいがある。

ヤマトの王権が近畿に起こり、日本を統一しつつあった頃、
国力はすでに新羅や百済より大きかったのかも知れないが、
漢や隋に朝献しても、高句麗の王に朝献したとは聞かない。
その割に交流は盛んで多くの人や物が往還している。
新羅や百済は北で拡大する高句麗に対抗するため、同盟相手を捜し、
新羅は唐と、百済は日本と連合する。
その日本が百済を後援する為、ついに中国と戦争。
白村江での決戦にボロ負けした日本は唐からの追撃を恐れて、
戦線を下関まで下げてしまうけれど、半島支配を嫌った新羅の反発と
西方で拡大する吐蕃、チベットの圧力に唐は戦争継続を断念。
日本は戦争遂行者斉明天皇を陣中で失い、百済の滅亡に伴って
発生した多くの難民を受け入れたのでした。
でもこの戦争の後、アジアに置ける日本の存在感は急速に増し、
朝鮮半島から調貢を受ける立場に。
半島の国々は常に大陸からの圧力を受ける地勢にあり、海をはさんで
の日本との国交はいろいろと都合が良かったのかも知れない。

日本が中国を意識するほど中国は日本を意識していたかと云うと
多分そんな事はなく、先の東夷伝でも数多ある周辺国の一国に
過ぎないと云う扱いである。

クニの勃興は財産の集積と分散である。
より多くの水や飯を押さえる納得のいく理由を
こじつける必要がある。そこでは押しのけた相手を
顧みる余裕はない。実際には武力であったり、政治力で
あったりする訳だけど、古代においては王の権力は
しばしば授けられたものとする便法が取られた。
クニが形を成し、人が落ち着いて考える時間を得られる
様になると自分たちがやってきた事を正当化するため、
開闢を神話として語るのである。
なにしろ神であるから、無知で蒙昧な人々に新しい
開墾法や狩猟法を示す。ありがたい。

中国でも周代末にはそれ以前の王朝、夏や殷ですら実在を
疑っていたらしい。それぐらい周の治世は長いのである。
これが前11世紀から前三世紀頃の話。
中国は周によって起こり、それ以前は伝説、風説の類いだと。
ところが二十世紀になって甲骨文字の研究から殷の実在、
あまつさえ殷の首都であった殷墟の発見に至る。
伝えるところでは殷は前17世紀に夏を討ち滅ぼして立ったと
される。それが実在するなら夏も実在したのでは、と思われるが
今のところ「これが夏!」と云う様な資料は発見されていない。

一口に中国と云ってもその代替わりはほぼ前代の全滅をもって
行われるので、そこまでに培われた知識や財産はその度に
失われてしまう。それでも徐々に集合の度合いはその密度を
深めて、唐代にはようやく今の中国の態を構築するのである。
周辺に対する影響力だけでいえば、今より遥かに強力だったとも云える。
それが七世紀から十世紀頃の事。 

百余国の争乱を勝ち抜いたらしいヤマトの王権は徐々に
その支配地域を広げ、河内や葛城から難波や奈良へとその中心を
移動して行く。その頃はもっぱら大王を称していたらしい。
王の中でも抜きん出た王を示しているとか。
古くから海洋貿易に長けていたようで、古代の大王の墓陵は
大阪湾に入ってきた各国の貿易船にその偉容を誇っていた。
九州にあったとされる大国クマソを平らげた後は、半島との
交易も盛んになり、晴れて外交デビューである。
国力の充実、いかばかりであったろう。
そんなルーキーの鼻っ柱をへし折ったのが、白村江の戦いだ。
宋書によると五世紀には倭の五王から調献があり、それぞれに
倭国王としての承認、冊封を与えたと記されている。
日本側の史料、記紀ではその頃にはヤマト王権でも賢王と謳われる
雄略や仁徳などの大王がその治世についていた時だ。
先のナの国やヤマタイ国の調献の例からすると、いまだヤマト王権は
その王位を盤石としていなかったということだろうか?
当然の様に記紀では日本の大王が中国から冊封を受けたなどの記述はない。
日本側からすれば通商のつもりでも中国では調献と受け取った、
と云う事なのかも知れない。
冊封と云えば中国では新羅も高句麗も百済も皇帝が冊封した臣下なのだ。
なんで臣下の横暴を皇帝が止められんのか。
唐の弱体を示していると云う事なのだろうか。

とまれこの戦いで日本は一旦雌伏の時を強いられる事になる。

滅亡した百済からの亡命者、難民は大陸の新技術や文化を
日本にもたらした。初の律令制度、初の条坊を敷いた都、
政治的には壬申の乱を経て、いよいよヤマト王権は日本
となり、大王は天皇へと変貌するのである。

古事記の序文にいわく、時に天武天皇、稗田阿礼を召して
語り部の伝える大王史を文書に残すことを企図す。いわく
諸家に伝わる旧史、すでに多くを誤りたるをもって、これを
放置するはその本分を失わんや。今この時をもって後世に
残さざると。 この頃、各部族で己の来歴を文書化することが流行り出した
らしく皆が勝手に俺様日記を発表してると、本来の歴史が
歪められてしまう。じゃによって天皇たるワシが正史を残さん
といかんけんのう、とおぼしめしたらしい。
ちょっとその元になった俺様日記を読んでみたい様な気がするのですが、
当の古事記ですら現存する写本が後代は南北朝の頃のもの。
この天武天皇の企ては結局本人の代では成し得ず、後に元明天皇の代に
改めて編纂される事となった。
ただ天皇自らが内容に関与していないとのことで、正史とは見なされず
歴史書としての扱いになる。
なんにせよ、それまでは大王のモガリの時以外は聞く機会すら
なかったろうと思われる大王史である。あわせて天地開闢について
その頃伝えられてきた神々の話が文書化された功績は大きい。
これによって現代のわたしどもでも日ノ本の来し方を振り返られる
のである。

ところが、である。
なぜかここには百余国争乱もナの国もましてやヤマタイ国やヒミコ
などもまったく出てこないのである。 これはどういうことなのだろう?
中国の文書にあらわれたこれらの記述は間違っていたのだろうか。
それともそのへんはヤマト王権の勃興とは無関係な豪族の話だった
のだろうか。

代わりに描かれたのはなんともファンタジックな天孫降臨の物語だった。

その後、国史として編纂された日本書紀と古事記でもところどころ、
記述に相違がある。古事記の冒頭には語り言葉として伝えられた
伝説、帝紀には漢文に起こすのは難しい部分があると記されているので、
その辺りでも解釈の違いがあるのかも。

クニツクリに顕われた神、イザナギの体から三柱の神が生まれる。
アマテラスとツクヨミとスサノヲでこのうちアマテラスが天皇家の
祖神とされる。アマテラスは高天原という神々が住まうクニを治めた。
この他に葦原中原(日本列島のこととされている。)というヒトの
住まうクニがあり、アマテラスはここも神々が治めるべきと考え、
あれやこれやの末この地の神からクニを譲り受ける。
そこでここを治めるべくアマテラスはその孫にあたる
ニニギを派遣する。これを天孫降臨といい、九州の高千穂に降りたと
される。

そのニニギから数えて三代目カムヤマトイワレヒコは「祖父が
高千穂にくだられてから180万年ほど経つが我らはいまだ葦原を
あまねく治め得ていない。もっと東の地へ移ってはどうだろうか」
と提案し、近畿を目指す。これを神武の東征という。

神話を字義通りに捉えれば、ヤマト王権は最初九州に起こり、後に
近畿へ向かったと思われる。なにせ筑紫、浪速と名指しである。
天地開闢については同様の説話が全世界にあるので、ひょっとすると
人類の流浪に関連してるのかも知れない。
その後の三柱の登場は何を表しているのだろう。
名前だけ出てきてその後に逸話のないツクヨミは数合わせなのだろうか。

最初の諍いとしてアマテラスとスサノヲの対立(アマテラスの誤解)
が描かれている。(けんかと云う意味ではイザナギとイザナミも
対立はしましたが…)このスサノヲという神はなんともお調子者で、
様々な乱暴を働いて神々の怒りを買い、高天原を追われますが、
その後流れ着いた出雲では怪異を沈めた英雄としてこの地に
ナムジ(大国主)を産み落とす。これを国津神と呼び、高天原の
天津神とは区別している。大国主は出雲で大いにクニを起こし、葦原
中原を良く治めますが、何故か高天原はここを治めるべきは天津神だと
因縁を付けてくる。あれこれやりとりがあって、高天原は大国主から
葦原中原の統治権を譲り受け、ニニギの派遣となるのだ。

では何故出雲を接収しないのか。
何故ニニギは出雲から遠く離れた高千穂に顕われたのか。

よく云われる事だが結果から原因が生み出されている節が見られる。
出雲との諍いがあったからスサノヲによる因果をこじつけたのではないか。

それはさておき、ここの下りだけ読んでも百余国争乱の影は見えない。
高天原にはそれくらいの数の神様が居そうだけど。
一説にはこの高天原がヤマタイ国で、アマテラスがヒミコなのではと
ともあるが、どうなのだろう?

日本書紀によると天孫降臨から東征にかかるまで179万と数百年
かかったとある。 まぁ恐竜百万年とか云うし…あるかい!
三代目にしてようやくと云う事の表現なのかも知れないが、これ以外にも
記紀が云うところの年代は中国的な「白髪三千丈式」の誇張が見受けられる。
ヤマタイ国論争ではその方向性や距離についていろいろと解釈が取りざた
されるが、共通するのは魏志倭人伝は間違っているという認識だ。
そのまま受け取ると日本の地勢にそもそも合わないからだ。
東夷伝云うところの倭人には南太平洋の海洋民族も含まれていたのだろうか。
カムヤマトイワレヒコのヤマトは漢字では倭と書く。

中国では伝説神話の類いと思われていた殷、夏王朝の実在が確定的に
なってきたけれど、日本では皇統符の最初の方はそもそも信じられていない。
戦前はそれでも史実として教えていた様だけれど、日本の皇統に関する文献は
記紀以外には現存せず、中国や朝鮮の古王朝のそれとは合致しないわけだ。
であれば後は傍証を固めて行くしかない。

ヤマタイ国=高天原説を唱えるものは紀元前180万年を三世紀まで
縮めなければならない。

年代については「間違ってる」と一言云えば済む場合もある。
天皇125代を平均寿命で量って行くと概ね開祖は三世紀頃になると
主張する向きもある。ただ125代が水増しされていない事が前提。
ヤマタイ国には敵対するクナ国の存在が記載されている。これが
記紀に書かれる出雲王権との対立であるとも解釈されるが、東夷伝では
この国はヤマタイ国の南にあるとされている。

ヤマタイ国が高天原であるとするのはヤマタイ国北九州説に連なる。
この場合クナ国は後のクマソとも考えられる。
一方ヤマタイ国畿内説の場合、クナ国は熊野あたりになる。
この場合神武が東征してきたとの記紀の記述に沿わないので、ヤマト王権は
ヤマタイ国とは無関係に勃興したことになる。神武は大阪に入ってから
ひどく苦戦したことが書かれているので、もともと別の名を持つ王権が
ヤマタイ国を制圧したことでヤマト王を名乗り、遡ってカムヤマトと
なったとも考えられる。
これを仮に高千穂王権として、何故ここが東夷伝に出てこないのか?
九州に強い王権が存在したことは発掘等から確実なので、高千穂王権は
九州での勢力争いに敗れたか何かで東遷せざるを得なかったとか。

古代王権としてその存在が暗示されるのはおおざっぱにまとめると
畿内、九州、出雲、東北のよっつ。
この内東北は東夷伝のみならず記紀神話にもその存在が描かれない
謎の勢力。わずかにヤマトタケルの冒険潭に東北の国々が現れるが、
クマソなどの国に比べるとその扱いは低い。
名前が出ないのはその影響力の低さゆえ、と思われるのなら
高千穂王権がヤマト制圧以前にはまったく注目されていなかった事が
伺える。

また同じ様にヤマタイ国の場所によってヒミコというのが誰か
というのも分かれてしまう。高天原であるなら当然アマテラス
ということになる。記紀神話にはヒミコと同じく太陽崇拝の巫女
と思われる女性が何人か書かれており、近畿説に立つ人は
オキナガタラシヒメとかヤマトトトヒモモソヒメとかを比定している。

それもこれも外国の史料と国内の史料に差が大きいからだ。

中国は自分以外の周辺の国は蛮族と蔑み、馬鹿にしているところがある。
それだけに周辺国について記述するところは不必要な移入もなく、
ただ知られたことを淡々と書き記す傾向があって、我田引水に偏りがちな
国内の史料より頼りになる。
故に古来より学問と云えば中国のそれを重んずる感があって、我が国でも
平安時代に仮名文字で日本語を表現する手段が表れた後も、インテリが
つかう文書は常に漢文だった。

そこをヨシとせず日本には日本の文化文明があると、新たに学問を
起こそうとする運動として国学というのが江戸時代に起こる。
鎖国によって国外の出来事に疎くなったのか、中国の実情に触れられなく
なり、紀元前の漢文書だけでは新しい時代を説明出来ないのに、
権威だからとありがたがる国営の朱子学などに対する反発から生まれた。
主旨は良かったのだけど大日本史などの尊皇論にも影響され、中華思想
とはまた別の日本偏重の学問へと傾倒していく。

そのあたりからするとヤマタイ国などわざわざ取り上げる価値もない、
土豪の集団である。倭王が時の中国皇帝に冊封されたなどとは許しがたいと。

またこの国学の流れは現在でも連綿と受け継がれており、上古の日本に
文字の無かろうはずがないと、ヲシテ文書なるものの研究を熱心に
進めておられる一派がある。漢字流入以前の古代文字、江戸時代には
神代文字と呼んでいたもののひとつである。
神代文字の多くは江戸時代の国学者が無理に作ったものであり、
古事記や日本書紀の親本だったとされるヲシテ文書も、その写本を
江戸時代以前に遡れないため、後の創作ではないかと疑われている。

記紀の親本としては別に帝紀、旧辞なる文書の存在が古文書には
記されているが、現在のところ見つかっていない。

国学には日本の独自性を追求するあまり、ややもするとねつ造の気配が
あるが、漢文の書では汲み取れない日本の情緒や伝統を掘り下げるという
意味では大切な学問でもある。正史たる日本書紀に古事記についての
記述がないため、偽書ではないかとの疑いをはさみつつも古事記についての
考察を厚く膨らませてきたのは他ならぬ国学者たちであった。

熱心なあまりとある神代文字が世界中の全ての文字の祖系であると
主張するものも居た。言語起源説。コリアン先生を笑えない。

しかしこうしたあばらかべっそんな主張も一概に馬鹿にしたものでもない。
学説の中にはそんな四回転ジャンプの末に定説となるものだってある。
また定説は常に疑われ検証され続けなければ、確固たる定説の地位を
維持出来ない。定説、常識だから疑わないというのは最初から何も
考えないのといっしょである。

例えば日本語の母音は五音節からなっておるのですが、そこから五十音表が
生まれたのは江戸時代以降のことと思われております。ところが神代文字の
作者たちは日本語に五十音は古来からそうだという思い込みから、上古の
文字もそのように配列されるべきと分類してしまい馬脚を表します。
現在の漢文などからの研究では平安時代以前には八音節あったとのことで、
それより古い神代文字が何故五十音に従うのか説明出来ず、ほぼ全ての
神代文字はその論拠を失いました。ところがヲシテ文書支持者はそもそもが
八音節というところを否定します。翻訳に過ぎない漢文に日本の何が判る
かと。まぁそれを言うなら他の神代文字も復活しそうですが。
15世紀に成立したと思われるハングルによる文書が何故か紀元前の
地層から見つかるなどなかなか興味深い韓国考古学会も、ある意味
常識に対する挑戦として捉えられるでしょう。
このようにすべての学説は互いに研を競うべきです。ヲシテは上古の日本語
でなかったとしても、よく出来た文字構造なので、ヴァルカン語として採用
してもよいのではないかと思っています。

文書による同定が袋小路化しつつありますので、ここは発掘資料の出番で
あります。発掘技術の向上もありまして、例えば最近の学説の変化としては
古墳時代の前倒しがあります。今までは遡っても三世紀後半と思われていた
古墳の築造年代は三世紀中頃には始まっていたとの見解だそうで、東夷伝が
伝えるヒミコの墓が絵空事ではなくなりそうです。
また弥生時代の集落跡が、耕作に適した平地のみならず山間の高地にも 
点在することが判明し、記紀には描かれない百余国争乱が現実味を帯びて
きました。現在これが砦として機能していたのか調査が続けられています。

江戸時代があまりに安定していた(変動はしているけど長期的には)為か、
今当然の様に扱われている習俗もこの頃に端を発すると云う事が多い様な
気がする。江戸起源説。生活の周辺を見回してもなんかちょっと古そうな
ものでも調べると大体江戸時代のものでがっかりする。
発掘による発見からしても中国の文書はその他の国の国史に比べれば、
信頼に足る事がわかる。一世紀のナの国王の朝貢の例など金印が見つから
なければ、それの裏打ちなど文書では出来なかったろう。
だからヤマタイ国についてもそれが実在することを疑うひとは少ない。
北九州なのか、近畿なのか、東夷伝の記述だけでは定かにならないので、
もっぱら周辺事実の発掘によって雌雄を決しようとしている。
ヒミコにも送られたとされる金印が見つかればかなり決定的だけど、未だ
発見には至っていないので同じ頃に送られたとされる神獣鏡の出土状況から、
近畿説を押す傾向が近頃は強い。

とは云え発掘調査にも恣意的なねつ造がないとは云えない。
そうであって欲しいという思いが強いあまり、柳の枝に幽霊を見ていないとも
限らない。九州で発見された金印も見つかった時の状況(江戸時代)など
からねつ造は常に疑われるべきだろう。

伝えられる歴史は往々にして勝ったモンの言い分である。
古事記、日本書紀にしても壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇の自画自賛、
自らの正当性を主張せんが為の事業と云う側面を忖度する必要がある。
その点でも中国の史書はしょせん他人事なので視点としてありがたい。

第三者の視点というのは当事者同士で問題が解決出来ない時にも有効だ。
国連がどちらにも付かず、調停役を果たすというのは実に理に適った
システムなのに、上手く機能しないのはやはりどんなものでも独立して
しまうと当事者視点がそこに発生してしまうからだろう。人間はどうしても
主観に沿った発想をしてしまう。自分の都合のいい様に事実をねじまげて
しまう。

そうした思い込みを避ける一つの方法に相手の立場に立ってみる、という
ことがある。ある事柄に付いて思い込みがないかどうか、逆の立場でも
意見が変わらないのなら、ある程度その意見は定見に沿っていると云える
のではなかろうか。相手の立場に立てるぐらいなら偏見は生まれないとも
云えますが、まぁとにかくやってみる。
例えば「手助けをしないと立てないような弱者は率先して死ね」という
考えを手助けなしに立てる奴が云うのは容易い。立てないものが援助を
拒絶するのはなかなか出来なさそうだ。この場合の決断とはあきらめる
ことだろう。難しいのはやはり立ててたし、こういう考えを持っていた
奴が立てなくなった時だろう。彼は率先して死ぬだろうか。
当然、範を示す為に死ねばこの考えには見るべきものがあると云える。
だが、ここまでは自分自身の問題。 親、子、恋人、友人にこの考えを徹底出来るか?
手を放せば死ぬとわかっている子の手を、集団の為に放せるのか?

自分の遺伝子の保存より社会の存続を取る、というのは生命のあり方として
おかしい。戦前の日本にはこれを美徳とする風習があったようだけど。
それで利を得るのはむしろ社会の敵の方ではないのだろうか。
結局、真っ先に死すべしとしていた軍隊は「お前らも死ね」とか云い出した
訳だし、やはりこういう考え方は不自然なのだろう。

自分が死にたくないだけだろうと、これまた立ててる奴が云うのは容易い。
この場合立てなくなった者同志が殺し合うことになれば筋が通るのか。
どちらにしても人の生き死にを別の誰かが論ずるのはおこがましいと思える。
他人に死ねと云う奴が生きてるというのが不自然なのだ。

大を生かす為に小を切るというのなら、そこには謹んでお願いするという
気持ちが必須だろう。 「すまん、死んでくれ。無駄にはせん。」と。
「お前ら、邪魔だからとっとと死ねよ。」では 「まずお前が死ね。」となる。
でもその境界がどこにあるかは当事者にも分からないんじゃないだろうか。

最初は崇高な気持ちからだったとしても、殺し始めれば作業になるのは
目に見えてる。

今の所独裁者が殺戮者に変わらなかった例というのをわたしは知らない。

殺す側の理屈を考えてみよう。
素直に考えて人を殺す動機は臭いし汚いからとか、憎いからとか感情的な
ものじゃないか、と思うのだけど、それでは人を説得出来ないとも思うので
危機感と使命感というものを想定してみる。
「説得する必要なんかねぇ!汚物は消毒するに限るんだよッ!」という意見
もあるかも知れないが、消毒していいのは消毒される覚悟のある奴だけだ。

社会が崩壊寸前だ、もはや誰かを殺して人口でも減らさないと、共倒れする。
それというのも、今までの為政者が友愛を口にして、減らすべき屑を減らして
来なかったツケなんだ。倒れている人間等に構っている余裕はないのに、助け
ろ助けろと、見捨てる覚悟も信念もなく、ただただ問題を先送りにしてきた、
その先見の無さがこの危機を招いている。
ここは鉄の意志をもって事態に対処しなければ。
それが出来るのは俺だけだ!
憎まれても、恨まれてもこの政策は断行する必要がある。
どうしても邪魔をすると云うなら、俺を倒してみせろ。
その程度の覚悟も無い奴が言論など口に出すな!

ん。人がついてきそうな気がしてきた。

でもこの首長、不退転の決意も覚悟も結構だけど、それもこれも同志
あってこその強行。議会や報道や司法を蔑ろにしておいて、水道局や
電力会社がサボタージュでもすれば、皆殺しにでもするつもりだろうか。
警察や裁判所が反抗したら?法を守らない人間にそれを非難する資格は
ないだろう。それ以前に部下が云う事を聞かなくなったら。
ひとりで殺し回るのか? なんで議会はこいつを更迭しないんだろう?
なんだかんだいって期待してるんじゃないの?

それはともかく。
全く違う意見に立つには何かその基礎となる部分で認識がやはり異なる
のだろう。独裁を揮いながら殺戮者にならなかった事例を知っていて、
それを理想としているとか。
個人が全体に奉仕する姿に恍惚感を覚える変態が居るのはわかる。
その気分もわかるけれど、
自分はコレでヌイてるからみんなもヌクべきだよッ!というに等しい。
ヌキどころを他人に指図される間抜けはない。
だがこの独裁者は「ここでヌカないとみんな死ぬ!」と云う訳だ。

そう云えば同じ様に岐路に立って裁断を払う為政者と云う意味では
上杉鷹山や調所広郷があたるかも知れない。
上杉鷹山は改革にあたってその危機感を共有する工夫に腐心してる。
調所広郷は乱暴と云う意味ではこの首長と一緒だけど、最終的に責任を
引っ被って割腹死してる。
成功するしないは結果を見るしか無いけれど、果たしてこのおっさんに
それだけの覚悟があるのかどうか。

どうも情報が無さ過ぎてこのおっさんには移入出来そうも無い。

歴史上の人物に範を求めるのは温故というより、考えるべき問題が
そうは変わっていないからなのか。
藩の改易によって禄を失った武士は浪人となって大坂や江戸に
流れ込んだ。不況でクビになったサラリーマンが浮浪者になってる。
街の治安も不安になる。田沼意次はあぶれ浪人を使った北海道開拓を
企図した。教育を国が負担するこども手当なども同様の政策だろう。

百済難民の多量流入は大日本帝国崩壊と取り残された在日の存在に似てる。
半島に生活の拠点を持たない在日に、外国人は帰れというのは酷だろう。
そもそも半島と列島はひとつの国だったのだから外国人というのもあたらない。
実質は違うと云うのなら、日韓併合は欺瞞だったと認める様なものだ。
だったら尚更両国の政府はこの問題を解決する責任がある。

百済崩壊によって、半島は新羅が統一した訳だが、新羅王室はその統治を
めぐって内紛を起こし、高句麗由来の王氏高麗に取って代わられる。その
高麗もモンゴルによる接収、復活した明との関係からクーデターによって
李氏朝鮮に代わる。その後日清戦争の余波で大韓帝国となるから、百済系が
復活する事はなかった。
もし百済難民が日本に溶け込み、その血筋を残したのだとしたら、半島は
親の敵。日本の嫌韓の流れは百済人の怨念が作り出しているのかと思える
ほどだ。そうととれば在日が目の敵にされる構造も理解出来る。百済人は
半島という故郷を捨てて列島を終の住処と決めたのに、韓国併合で流入した
韓国・朝鮮人はその国籍を捨てようとしない。帰る気があるからだろう、
だったらとっとと帰れよッと。

だが半島は東西冷戦の最前線となり、分断されてしまった。西側の
韓国は軍政国家となり、戦争継続のために在日の帰還を拒否。
東側の朝鮮は大々的な帰還事業を興すが、どうもにわかにきな臭くなる。
かつては皇民だ創氏改名だともてはやした日本は見向きもしない。
それではやさぐれもするだろう。敗戦の日に一部の在日がそれまで
虐げられた鬱憤を晴らさんと、手に手に武器を持って駅前等の土地を
収奪。それを元手にとある産業を起こしたのだが、何故かその辺は
追求されない事になっている。その利益の一部は半島へと渡っている
とか云われるが実態はいかに。
そういう話は東夷伝のようで、読み取り方で如何様にも取れる。

統計では在日の割合としては、すでに朝鮮・韓国系よりも中国・台湾系の
方が数が増えている。その内での帰化率は圧倒的に朝鮮・韓国系が高いの
である。帰化しない事を誇りとするような実態はむしろ中華系の方だ。
その帰化要件も数年前と今では違う。
かつてはある程度の所得と高いキャリアを要求されていて、在日と判れば
就業すら出来なかった多くの韓人は、帰化したくとも出来なかった。
現在は要件が緩和され、在住が長い事、犯罪歴がないことなどをクリア
すればほぼ帰化申請は通ると云う。韓人の帰化率が高くなったのは
そう云う背景もあると伺える。
ところがそうなったらそうなったで、「なんで帰化しない」と怒っていた
人々は「どうして帰化なんかする」とその動機を疑い、帰化に至る前の
履歴を戸籍から消すなと云い出す。
つまるところ日本に対する忠誠云々より、そばに居て欲しくないだけなのか。
実際、中華系に比べると面立ちも情緒も似通った韓系は、名前が日本風で
あれば区別はつきにくい。おそらく本人は知らないだけで、実は百済系の
末裔である日本人も多いのではなかろうか。
今まで見てきた様に純日本人などおそらく数えるほどで、その大半は
渡来系。しかも純日本人と渡来系の差は時間だけなのだから。

土地が人格に影響するということはありそうだ。
飲み水の少ない大陸では他者との関わりは攻撃的になる。
代わりに広い国土は鷹揚さも生むだろう。
湿潤で温暖な日本では関わり方は穏やかでも、狭い国土で
すぐに利害が衝突する。
いちいち相手を殲滅していてはこちらの身が持たない。
衝突し突破し勝ち取る事が普通な渡来系も長くこの国で暮らせば、
もの静かで和を重んずる性格にならざるを得なくなるのではなかろうか。

民族的な偏見だけで見れば中華系やユダヤ系はどこのどんな土地に
住もうと、その性格を変えていない様な気はする。

中華思想を誇る漢民族も長らく蛮族と侮蔑していたモンゴルに
制圧された上、自分らが作った最大の唐よりも遥かに強大な元を
構築されたのは大きく自尊心を崩されたことだろう。その後も
女真族、コーカサイド、日本、と何度も打ち倒され、なかなか妥協を
見せない共産中国の強硬な態度はその反発のようにも思える。
四千年の知恵や経験はなんの裏打ちにもならないのかと。

ユダヤ系にはそんな拡張指向は見受けられないが、その譲らなさ加減は
やはり選民思想によるものなのだろう。人類の中で神に選ばれたのは
自分らだけなのだと。なんかヲタくさい。厨二病。
世界が滅びる時、神の門をユダヤだけがくぐる、そんな日が来るといいねぇ。

偏見の上に偏見を重ねていってもしょうがない。
共通するのは異質なものに対する嫌悪。
言葉が通じない、見た目が違う。
似た様な風貌でも習慣や風習が違うといって毛嫌いする。
人種差別や階級差別とヲタク排斥は根っこの部分では同じ
ものの別の顔なだけが気がする。 云ってる事は同じですしね。
「お前、汚いし臭いから死ねよッ。」

セックスすれば子供が出来ちゃうそんな間柄で、どうしてそこまで
嫌悪するのか。その答えは自分の心の中でも見つかることでしょう。

よって外国人地方参政権は確立されるべきと考えます。
[2010年9月16日 8時30分]

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