いろいろと気になりましたにょで、さらっと調べたこと
にゃどを。
いわゆる鎌倉街道は今でもあちこちに名前が残っておりにゃす。
これは京都との往還にも使われましたにょで、もちろん近畿
地方にも探せば残っているはず。
頼朝が鎌倉を起こした際に、行政として行った街道整備の結果、
鎌倉府を中心とした放射状の直線道路がこさえられました。
これが元祖鎌倉街道。
元祖は軍用道路としてこさえられ、鎌倉府を古来の律令に
合わせて都造りしたのと同じ様に、この道にも規定があった
と考えられているようですにゃ。
両側に畝を持ち、幅約6メートル、道は酸化した土で固められ
少々の障害物は無視して直進する。ゆえに丘陵部では道を
掘り下げたのでこれを掘り割り道と呼ぶ。

鎌倉時代も後期ににゃると、物流の便を考えた道が整備される
ようににゃり、荷物を運びやすい平坦でぐねぐね曲がる道
が利用されるように。
鎌倉が時代にょ中心からはずれるようににゃると軍用道路
としての鎌倉街道は無視されるようになり、次第に後世の
街道整備のなかに埋もれていった、ようですにょ。

ですので披露山の道が鎌倉街道であったとは考えにくい。
官道としての特徴が見られないにょで。
ただ古い道であることは間違いにゃく、江戸時代には
よく利用されていた形跡がある。
さらに披露山を小坪側に降りた交差点の近くには
馬頭観音が現存しておりにゃす。これも道の拡幅で移動
させられた模様ですが、いずれにしてもその近辺であった
にょは間違いない。
馬頭観音があるところは馬替えの関と考えられますにょで、
街道に関連している、と推察できる訳です。

はたして披露山の山道は鎌倉古道にゃのですかにょー?

古い道は使われなければ、いかに立派でも
いずれなくなってしまいますにゃ。
中国式の都としては日本最初の藤原京造営の際にも、やはり
中国の律令に沿って大道が整備されたそうですけれど、
地形を無視した一直線の道路にゃどはその中心を失って
しまえば意味がなくなります。
結果、藤原京の大道はすべからく後の道路整備の下に
埋もれていく訳ですにゃ。
今の国道が東海道をそのままなぞっている訳でにゃいのと
同じことですにゃ。
東京から皇居がなくなれば、都内の道はその意味の
大部分を失うとおもわれますにょ。